昭和43年1月28日 朝の御理解 大坪かよこ
昨夜、先生のお話を頂き終わりましてから、応接間に下がらせて頂きました。
須田先生、それから親先生一緒にお茶を頂かせてもらいながら、須田先生がこう言うて下さいました。ほんとに今日は、御信者の皆さんが一生懸命に、私の話しを聞いて下さり、あまりに一生懸命に聞き上手に聞いて下さるから、思わず知らず、熱が入った。思わず知らず、長時間に渡って、お話しをした、という意味のことを、お話になられ、ま、ほめていただいたわけです。
したらあの、親先生が横からこう仰るんです。須田先生これがほんとのあいよかけよでございますな。ね、お話しを伝えるもの、それを受けるもの、ね、そこに先生の御内容である信心を、ほんとにこう、引っ張り出すことができる。
また、私どもが一生懸命頂いておる。あれがどうでしょうかね。行儀を悪くしたり、眠ったり、あくびの連発であったら、とてもあんなに良いお話や、長いお話は頂くことはとてもでけませんでしたでしょう。
頂くものが一生懸命なら、どうぞおかげを受けてもらわにゃならんと、思われる先生の信心の熱情が、あのような雰囲気をかもし出したのですね。
けれどもここに一つ考えてみなければならないことなんです。私どもがいかに聞き上手に熱心に頂きましても、先生のご信心の御内容がもしなかったら、出来ません、でしょうが。ね、もう限りなく、三十五年間のご信心、ご修行の中から生まれてきたご体験、それがもう尽きぬほどにああして、頂くことがでけたんです。
ね、鐘が鳴るのか、撞木が鳴るか、鐘と撞木の間が鳴るのであります。鐘でもない、撞木でもない、その鐘の中から、撞木の中から、その間の中から、あの余韻のある鐘の音というものを聞くことがでけるのです。
ね、どうでしょう、あれが鐘でなくて大きな岩か石であったら、いくら撞いたって音は出やしません。ね、またそれが鐘でありましても、私どもが、ね、まあ、いうなら、布か綿のようなものであったらどうでしょう。
ね、どのように素晴らしい音色を持った鐘でありましても、内容として持っておりましても、それを聞くことも、聞き取ることも出来んのでございます。
ね、親のことは子が頼み、子のことは親が頼み、頼み合い、あいよかけよ、親先生が仰ってくださった。これこそ先生、あいよかけよでございますなー、まさしくそのとおりである。ただしそれが、ね、どちらにそれが欠けても、どちらに本当なことが欠けても、それはその良い音色を聞き取ることは出来んのでございます。
長時間に渡って昨日、拝聴致しました。お話しを頂いとりますと、もう徹頭徹尾、ね、教祖の神様のみ教えの実践であり、また燃えるような修行精神であり、同時にお道の信心が、どのような信心であるか、それをあらゆる角度から、検討に検討され、ある場合は疑われ、ある場合は軽蔑され、ね、けれども奥さんの信心が段々変わって見えられ、いわゆる実意丁寧神信心が、生活の上に現れてきた。
それをご覧になって、おやおやとこう気付かれてきたんですね。私はここですよね。付いて行かない、奥様に付いて行かなければ馬鹿らしい、ほら、もう少し研究してみよう、もう少し勉強してみろ、というのが、三代金光様との出会いになるわけなんです。
そこに金光様の御内容である、いわゆる御神徳にお触れになられた。そして結論として信心とは、神徳を受けることだと、分かられた。ほど素晴らしい、信心とはおかげを頂くということじゃない、信心とは神徳を受けること、教祖様はそこのところを、信心をすれば誰もが受けられると仰る。また神徳を受ければ、心配はないとも仰せられる。またはあの世にももって行かれ、この世にも残るとも仰せられる。ね、そこのところをです、素直にです、信じられた、ね、私どもの信心と違うところはそこである。
ね、おかげを頂きたい、おかげを頂きたい、なるほど、お取次ぎのお徳によって、おかげを頂きました。頂くけれども、また、ほしがる、信心は、またになる。こういう信心が、堂々周りの信心を、今日も説明になっておられましたが、一生続いたところで、私は御神徳にはならない、あの世には持っていけない、この世に残して置けない、ね。
久留米の初代が、御神徳とは、神様の御神徳、神様のご信用じゃからな、と仰った。
ね、私どもがいかに、熱烈にです、おかげを頂くために、どんなに水垢離取ったり、火の行、水の行を致しましてもです、それはそれまでのこと。
ね、一心を立てれば、わが心に神がござるから、おかげになるのであるだけだ。
ね、焦点が違う、ね、私どもの信心には、そういう一つの難儀が育ててきたような感じである。その点須田先生のご信心には、そうではない。ね、そこのところを私は、いよいよ頂いていきたい。入信一年にして、その町ほとんど全体が、金光様を知り、青年がほとんど教会にお参りをされる、ための御用をなさった。
・・自身もお使いなさったことであろう、時間もその為には惜しみなく使われたことであろう。ただ人が助かっていくということだけが、楽しみなのである。
いやそれが天地乃親神様の願いだと知っておられた。氏子信心しておかげを受けてくれよと、おかげ受けてくれよとこう、切々として、頼んでおられる親神様の心を心とされたわけなのである。ね、私は今度は、この合楽の私を始め、ね、ご信者の皆さん全部がです、ね、そこのところの、私は目を開かせてもらわなければならない。
そして信心は御用なりというような言葉をいうなら、発明された。ね、おかげいただかんなんけん、御用する、といったようなもんじゃない。もう当然のこと、当たり前のこと、としてそれをやり抜いてみえられたこと。
ね、ご神徳というものはもう限りがない、みてるということもない。ですから、おそらく生涯かけて、現在の御信心にお進みになっていくところに、限りないご神徳に触れておいでられることであろう。
昨日、ちょうど昼頃でした。もう、じゅんぴん事柄、それこそいやしからん、という夫婦、ご夫婦二人がお参りになった。いろいろお話しを頂かせて頂きましたんですけれどもね、私はもうほんとにそこんと頃のその、もう焦点を間違えたらこのようなことになる、ということを感じたんです。
皆さんもご承知のように、高良神社といや、もうこのかいわいきっての、以前の国兵大社でもあるし、もうみんなの信仰の的でもあるというくらいな素晴らしい、まあ、高神様と言われております。ね、たけうち・・・?をお祭りしたという、そのお宮様でしよう。
そこにちょうど、この御造営の頃だったですね。あの高良会館というのがでけました。
神主さんもなかなかどうして商売気があるなー、と私は思いよった。
ところがやはり武士の商法ですね、もう瞬く間に手を上げられた。
そこでその方夫婦がですね、もうそれこそ泣くように、聖徳太子の何とかという聖徳会という人達が、それから久留米の市長さん、ね、応援はするからどうか一つ引き受けてくれんかということだった。
非常にその、まあ、言うなら、なんちゅうですかかね、人物なんですね。そこでその奥さんがご主人に言われた。あなたどうでもこうでも引き受けなさいませ。高神様、高良様のその会館ですから、ね、そして、あなた儲かったなら、それこそ、お宮様に半分ぐらいもう、献納したっちゃ、いいじゃないの。そういう心がけでするなら、必ず成功しますよ、というのが、奥さんの言だった。もうお前がいうとおり、そりゃそうじゃな、神様のことじゃから、言うなら人助けのために、なら、自分たちが引き受けようか、と受けられて、今日に至った。
ところが先生もう毎月毎月、これこれだけの赤字が出るというのである。どうしたらよかろうか、というのである。先生にそういうこと聞いてもろうて、先生から、その右か左か、その教えて頂きたい、というのである。
私も驚きましたね。ほんとに何も分かっていない人たちの考え方が、ね、相当教養もあるだろう、財産も持っておられるだろう、けど今のような状態で行きよりますと、私どもの家蔵財産も全部、高良会館にほり込んでしまわなきゃならん。やめるなら今だと言うけれども、さあ、今、自分たちが手を引くということすらもでけなくなった。
ここんところへですね、一つ須田先生のご信心・・・?御用精神旺盛な、相手が高良様だ、高神様だ、のためにです、例えば、もうかりの半分な、献納しょうというぐらいな、しゅしょうな心がけを持ってして、それが成就しないということはどこに違いがあるか、ね、私どもが願わして頂いておる、拝ましていただいておる対象である神様はね、そういう神様ではないということ、ね。しかもです、私どもが打ち込めば打ち込んだだけ、そのままが徳になる。そのままがおかげにつながるところの信心を私どもは頂いておる。
お願いをしておかげを頂いて、はあ、ちょこっとばっかりこうやってお供えをする。
お礼参拝、それでこと済んだといったようなもんじゃなくて、ね、当然のこととして、金光大神へ対する、いや天地金乃神に対するところの、いわゆる還元の生活なのである。
天地に対するところのお返しの生活なのである。その生活が、須田先生の信心は、それになり、今の○○さんの中には、それではない。高良山様が儲かんなさるだけである。そういうことです。繋がりがない、還元にならない。ね、私どもそういう尊い、打ち込めば打ち込むだけ、ね、それこそ一足でも無駄にはさせんと仰せられる、神様なのである。
けれどもその打ち込み方がです、焦点を間違えて、打ち込んだら、大した変わりはないということ。
今日もまた、先生のお話を、ね、信心とは神徳を受けることだ、ね、その神徳を受けていくためのいよいよ具体的な、先生のご体験から生まれてくるところの、しかもほとばしるような、ご信心の熱情をです、私どももそういう熱情を持って打たなければ、良いものは生まれてこない。いかに先生が内容を持っておられる、釣鐘のような物であっても、私どもが、ね、あれは須田先生のもの、とてもあげな真似は出来ん、こんな気持ちで聞いたところでなんになります。ね、そりゃよかお話しだった、だけじゃいけんのです。
ね、私どもも遅まきながら、及ばずながら、ね、そういう真の信心を目指しての、おかげを頂かせて頂くための足がかり、そこんところをです、いよいよ具体的に今日は、頂きたいと思う。・・・?
世界中の氏子におかげは、やってあると仰せられる天地乃親神様、けれども受けものが悪いから、おかげにならんと仰せられる。ね、私ども信心をさせて頂いておる者がです、ね、その受け物を作らなければならない。神徳という受け物で、頂いていかなければならない。
心配もない、不安もない、ただあるのは、親神様の御用一筋である。いわゆる還元の生活である。しかもそれが当然のこととしてなされる。ね、私は思うのですけれどもね、例えば夏の夜にいっぱい蚊がおる。そこで休んでおる人、蚊帳の中で休んでおる人、私は信心のあるものとないものは、このくらいは違わなければいけないと思う。
ね、煩わしさもない、痛さ痒さもない。
ね、生きたくば、神徳をつみて長生きをせよと仰せられる。それはね、長生きだけのことじゃない。神徳を積んで、百万長者にもなれよということなのだ。ね、神徳、身に徳を受ければ、心配はないとこう仰る。ね、痛いこともなからなければ、痒いこともない。
天地乃親神様の、かいを引き伸ばしてくださっておるその中に、生活させて頂く生活を、私は天地乃親神様のご信心を頂いておる、金光様のご信心を頂いておる者の、あり方にならなければならんのですけれども、はたして、そういう、痒くもない、痛くもないというような、蚊帳の中に住まわせていただいておる人が、今、お道の信心をさせて頂いておる中に、幾人あるだろうか。それこそ、蚊帳は引いておるけれども、その蚊帳がもうあちらも破れ、こちらも破れしておるようなことじゃなかろうか。まさしく私どもがそれである。ね、はあ、これじゃおかげ受けられないはずだ、これではここから、おかげが漏っておったんだ、ここから、蚊が入ってきておったんだというところをです、私は、今日は一つ、検討したいと思う。ね、またそこんところを教えて頂きたいと思う。
ね、信心は神徳を受けることである、と極言される。
ね、そこには久留米の初代が仰った、信心、神徳とはな、神様の御信用じゃからと、御信用、その天地乃親神様のご信用を受けるためにはどのようなことをしたら良いか、どうあったらよいか、どういう心がけになったらよいかね、神様の御信用を、受けなければいけません。ね、そこに私どものね、喜びの生活が始められる。その喜びを持って行かずして、あの世に行ったて何になります。
もうこの世では仕方がないけん、あの世でなっとん、ちゅうてん、そんなことはない。この世でその喜びを持たずしておいて、どうしてあちらに喜びがあるはずはない。
ね、行く先は、それこそ地獄の果てか分からんけれど、この喜びだけはもって行きたい、その地獄がそのままそこの極楽になる。
ね、今日は一つ本気で、ね、そこのところを頂きたいと思うんでございます。どうぞ。